養浩館の紅葉
市民の憩いの場所として、また観光の名所として親しまれている名勝養浩館庭園は、江戸時代には「御泉水屋敷」と呼ばれ、福井藩主松平家の別邸でありました。
御泉水屋敷の成立時期については明らかでない点が多いのですが、元々この場所は、藩の重臣永見右衛門の屋敷地で永見氏が2代藩主忠直に成敗されてより藩主の別邸になったと伝えられています。
御泉水屋敷の文献上の初見は明暦2年(1656)で、4代藩主光通の側室が御泉水屋敷において男子(権蔵)を産んだと福井藩の歴史書である『国事叢記』などに出てきます。
昭和20年の福井空襲により惜しくも養浩館は焼失し、その後は長く本格的な修復は行われませんでしたが、昭和57年、国の名勝に指定されたのを機に、福井市によって復原整備が計画されました。
江戸時代の文政6年(1823)に作られた「御泉水指図」を基本に、学術的な調査と復原工事が進められ、平成5年に完成、一般に公開されました。
朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡は福井市街の東南約10キロにあり戦国時代朝倉氏五代の城下町の跡がそっくり埋もれていました。
京都の金閣寺や広島の厳島神社に並び国の三重指定(特別史跡・特別名勝・重要文化財)を受ける大変貴重な遺跡となっています。
栄華を極めた城下町の街並みをほぼ完全な姿で再現しており当時の衣装に着替えて戦国時代にタイムスリップしたような感覚になります。
毎年8月には「越前朝倉万灯夜」「越前戦国まつり」を同時開催し、迫力ある火縄銃の砲煙を見ることができ夜には約15,000個をこえるキャンドルの灯で幻想的な雰囲気になります。
国の特別史跡と特別名勝に指定されています。
一乗谷朝倉氏遺跡(復元町並み)
朝倉氏が栄えた時代の一乗谷の町並を再現しています。
武家屋敷をはじめ、商家や町屋群が再現されています。
当時の人々の暮らしぶりがよくわかります。
【朝倉氏の歴史】
朝倉氏の祖先は、兵庫県養父郡の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に入国しました。
朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して越前を平定しました。
以後、孝景、氏景、貞景、孝景、義景と5代103年間にわたって越前の中心として繁栄し、この間、京や奈良の貴族・僧侶などの文化人が下向し、北陸の小京都とも呼ばれました。
義景は、足利義昭を南陽寺に迎え観桜の宴を催しました。
しかし天下統一の戦いの中で1573年織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼討ちにあい灰燼に帰しました。
福井市グリフィス記念館
明治初期、福井藩は外国の優れた文化や科学技術を導入するために多くの外国技術者を雇い入れました。
その内の一人がウイリアム・E・グリフィスだったのです。
彼の福井滞在期間は僅か11ヶ月でしたが、その間に化学実験室を建て、多くの日本人子弟を育てました。
中でも、日下部太郎は福井藩士で勉学に優れていたためにアメリカに留学しました。
しかし、過度の勉学により体調を崩し結核にかかって異国の地で亡くなりました。
日下部太郎との出会いがグリフィスを福井に招いた一つの理由です。
明治6年にグリフィスが住んでいた居宅は焼失しましたが、2015年に再建されました。
店舗情報
店舗名 | 福井市 観光情報 |
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住所 | 910-0006 福井市中央1-2-1 |
電話番号 | 0776-20-5151 |
FAX番号 | 0776-27-0700 |
メールアドレス | kancon@fukuicity-navi.com |
ホームページ | https://fuku-iro.jp/about/ |